悲しい忘却

涼宮ハルヒが好きだ。
 
 
でも四年もの歳月は作品を忘却させて、
 
 
スキャンダラスな話題たちが、
 
 
それに泥を塗った。

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1.終わったコンテンツはゴミ箱へ。なら、ささげた愛はどこへ行く?
 
ここ数年で一度に放送されるアニメは激増したように思う。ジャンルは様々あるしそれ自体はまったく良いことだと思う。けれどそれと同時に視聴者の作品消費、代謝が早くなっているようにも感じた。

水星氏の言葉は一度は誰もが考えたと思う。けいおん!は終わってからまだ間もないし、しかもまだ劇場版がある。すぐに廃れるようなものではない。だが、劇場版までに新たな作品が続々と生まれ、既存のコンテンツは徐々に鮮度を失っていく。きっとどんな作品も二年もたてば「終わったコンテンツ」だ。それが三年もたてば、
らき☆すたはなぜ消えたのか?(リンク先閉鎖)
こういう話題として扱われるようになる。記事の内容もさることながら、真性の「らき☆すた」ファンなら傷つきかねないようなタイトルである。
もとい。ことさら京アニは特に作品を浪費する会社であるゆえに、その派手な宣伝によって作品の寿命をさらに縮めてゆく。(しかし、それだけの宣伝を打たなければここまで大きな話題にはならなかったのだから一概に否定することもできない)
今時、「らき☆すた」を語ろうとしても時代遅れと揶揄されてしまうに違いない。しかし、話題になった三年前にはもっと「らき☆すた」を愛する人々はいたはずだ。ファンと呼ばれる人種があふれるほどに存在したはずなのだ。いったい彼らはどこに行ってしまったのか。ファンを辞めたのか。愛を捨てたのか。記憶と一緒にゴミ箱に捨てられたのか。
私はファンという人種はもっと殊勝な存在だと思っていた。時間と努力と資金を惜しまず、語らせれば何時間あっても足りない。それほどの愛をもった人々だと思っていた。けれど実際はもっとドライで、新しい作品が始まれば思いもしないような速さで代謝していって、それまでの作品を「過去」にしていった。「らき☆すた」よりさらに前の作品であるハルヒの信者だった私にはその状況は耐えられないものなのだ。
 
 
2.忘れてくれたほうがハルヒのためかもしれないとすら思った
 
 
でも、ハルヒは「らき☆すた」以上にひどい状況になった。
鮮度はゆっくりと無くなって行き、過去になって、優しく忘却されていく。
それすら許されずに馬鹿にされて現在に残って記憶され続けている。たぶん、今も。
今更私が口にすることでもないが、ハルヒという作品を語るのに欠かせない三つの事件がある。正直話したくもないが。
比較的早い段階から、どうにもハルヒという作品には悪評が絶えなかった。当時バカで若くてミーハーだった私はハルヒという作品に魅力を覚えて、傾倒していた。そして「信者」を名乗った。ファンではない。「信者」として。ファンを名乗るほど私には時間も努力も資金も足りなかったからである。でも愛だけは誰にも負けない自信があった。だから周りからは気が狂ってると思われてもいいとすら思った。だから信者、自称「狂信者」として。らしい言い方をすれば「ハルヒイズムに傾倒するハルヒスト、兼ナガトスキー」としてハルヒを応援したものだ。その時はまだファンや私と同じような「信者」と呼ばれる人種はいっぱいいて、2ちゃんの掲示板もそれはそれは賑やかだったものである。しかし放送が終わって一年が経過した頃だったろうか。少しずつ状況が変わっていった。
 
 
 2−1.変人
 
 
山本寛の「らき☆すた」降板。
作品はハルヒと関係ないものであったが、監督はハルヒと同じ人間だったため少々ながら界隈にも影響した(追記:山本氏はハルヒ制作の時点では監督ではなく「シリーズ演出」であると指摘を受けましたのでここで訂正させていただきます)。でもこの時点ではまだまだちょっとしたネタになった程度の話だった。「○○としてその域に達していない」という言葉は、まあ数週間くらいは流行語になった。当時の私は「とりあえず円満な形でこの話題は終わってほしいな」と思った。思っただけだった。
それから「某ラジオで『喧嘩別れ』した」といううわさを聞いた。でもそれでも私はまだ「自身の耳で聞いた話ではないし、まだ噂の域を出ない」と判断し、大きな問題にならなければいいな……とやはり何もしなかった。
山本寛京都アニメーションを退社した。
明らかに私が思っていた「円満な形」ではなかった。でもそれでも、いまだに、まだちょっとしたネタ程度で済むことを願って、「かんなぎ」のネタも「結構ブラックなネタだなw」でスルーした。
でも話はそれで終わらない。
それから山本氏がブログやほかの媒体で明確に言葉を発したとき、もうとっくに「京アニVS山本寛」の構図は出来上がっていた。
スレッドやハルヒ関連の界隈はこの話題で持ちきりになった。でも私はそれを語りたくなかった。
京アニ信者でもヤマカン信者でもなく「ハルヒ信者」だったからだ。
歪んだ考えだった。ハルヒには京アニと山本氏の両方がかかわっているから、どちらかに肩を貸せばハルヒという作品そのものを否定しかねない。そんな考えだった。
しかし、それまで何の疑いも持たずに「神作品!」と豪語していたハルヒが、私の中で少し汚れた。作品は作品。裏話は裏話。作品の内容とは関係ない。そう思っていても、こういった裏方のゴタゴタは徐々に作品の印象を侵食していった。
山本氏の狙い通り……なのかどうかは知らないが、この問題をきっかけに京都アニメーション自体の信用も著しく失われたように感じる。
ハルヒという作品にかかわった問題はこれだけではない。
 
 
 2−2.トラウマエンドレス
 
 

エンドレスエイト事件。
私が知っている中で一番大きな事件である。まあ当然といえば当然だ、作品そのものが起こした問題だから。
一期が終わって三年後、ファンたちが待望した二期の放送である。大きく言えばこの二期そのものが問題を起こしたともいえた。誰もが期待した内容ではなかったからだ。一期の再放送に混ぜるという形式はまだサプライズの一つとして理解されたが、一期のインパクトを超えることは容易ではなかったらしく、掲示板の中で「次はどんなサプライズがされるのか」としきりに話題になったからこそその予想を外すことはできなかった。どんな作品でも二期以降はヒットを飛ばしにくいというのはよく言われるジンクスであったが、とりわけハルヒにはそのジンクスが大きくのしかかった。その中で放送された「エンドレスエイト」は、視聴者にとってある意味、最大のサプライズだったに違いない。……もちろん皮肉を込めた意味でだ。
「同じ話を演出やディテールを変えて8回放送する」。普通の人間なら2、3回くらいが限界だったに違いない。
この失敗が最大の原因となり、ハルヒという作品の世間的評価は失墜した。
ハルヒの話題をしていた界隈はすべてエンドレスエイトの話題であふれ、内容を語る場は批判に満ちて、本スレはアンチスレになった。
それでも私は良作といった。三年間続けた信者という名称にプライドを持っていたというのもあるのかもしれない。確かにエンドレスエイトは半分くらい超えたあたりから私だって度し難いと思った。でもループ脱出の回で私が感動したことは事実だ。だから周りになんと言われようとエンドレスエイトは良作だと思う。(また八周するかと言われたらちょっと苦しいがw)
そして、アンチであふれかえる中、一人良作と言い続ける孤独な戦いが始まった。
……いや、「戦う」なんていえたもんじゃない、ただ己の心が折れないように耐え続けるだけだった。ハルヒという作品にかかわるもののほぼすべての対象が誹謗中傷された。私は基本的にどの場所でもロム専な人間だったから、私自身にこそ批判の目が向けられることはなかったが、それでも数少ない同じ思いを持つものたちが馬鹿にされたりするのは見ていてつらかったし、何より自分が好きな作品が徹底的につぶされていく光景は私の心に浅からぬ傷をつけた。
あまり思い出したくない時期だ。
ハルヒについた禍根はまだ一つある。最後の禍根は「進行形」で起こっている。
 
 
 2−3.中の人など!
 
 
平野綾
誰あろうヒロインである涼宮ハルヒの声優。
正直彼女はアニメの放送当時から度し難い発言を残していた。オタクを否定しているととれる発言をしてしまったのだ。彼女が嫌われ続ける最初にして最も深い問題である。だから彼女の話題のそばには最初からずっとアンチがついていた。それだけでも十分に大きいともいえるが、まだハルヒという作品の途中であったし、作品そのものの話題性のほうがかろうじて大きかったから何とかなっていた。
しかし……ハルヒが終わり、らき☆すたが終わり、京アニ作品ヒロイン役二連投という大仕事が終わった後のこと。彼女もまたいつかの変人のように、彼女自身が彼女自身の言葉で語り始めたとき、問題は再び膨らみ始めた。
話は一気に数年進み今に至る。今である。あまりにも最近過ぎて私が言わずとも察しているはずだ。
グータンヌーボの発言だよ。
声優が一般メディアに出ることも少なくなくなった今の時代だが、彼女がテレビに出ることは放送前からかなり不安だった。まともにテレビに出る資格があるのは一般人にも認知されている一部の大御所と、メディア展開に成功した水樹奈々だけだと思っていたし、彼女の発言は何かしらの波紋を呼ぶことは考えなくても予想がついた。
結果は予想通りだったし、ある意味で典型的ともとれるくらい、それっぽい言い方をすれば「地雷」を踏んでしまった。
「女性同士のぶっちゃけトーク」が趣旨であるグータンヌーボだから色恋沙汰に話題が及ばない可能性はゼロに近く、そしてその話題を好むオタクはまずいない。そして彼女は過去の恋愛話をし、自身の恋にまつわる話をした。この放送で流れた内容は瞬く間にネットを駆け抜け、「やや多い」程度の数だったアンチは一気に膨れ上がり暴れまわった。2ちゃんまとめサイトとかでもこの様子は取り上げられ、それを見てさらにアンチの言動は多くの人の目にするところとなり、彼女の言動は悪評のおまけつきでネットの世界に蔓延した。
それで終わればまだ忘却のうちに済んだろうに。そうは問屋が卸さない。言い値で買ってやるからさっさと卸しやがれバカ野郎。
以降も彼女はテレビ出演を続け、メディア露出を増やしていった。水樹奈々の路線に行かせるつもりだったのかもしれないが、どう見ても成功しているとは言えない。マルチタレント的な位置にも行けたのかもしれないが、彼女が露出を増やせば増やすほど「声優やめるのも時間の問題だな」という印象は強まっていった。
最後の最後の極め付け、ツイッター進出。
ツイッター民としては「より距離が近くなった!私も平野さんと会話できる!」と思った。少しだけな。でもそんなことを喜んでいる場合じゃないのは呟きを見る前から明白だった。距離が近くなることは普通なら良いことだが、この時点で彼女に対するアンチの量は山のようであった。距離が近づいたことで聞こえる声の多くは平野綾への怨嗟の声だった。生に近い声なのだから声を通して人間としての良し悪しのほぼすべてに近い姿が耳に届く。だから受け手はそのどれをチョイスするかによって彼女に対する印象は変わるはずだ。そして受け手の多くはアンチ。彼らがチョイスするのは良し悪しの「悪し」だった。彼女の印象はこれからもますます悪化していくのだろう。そうそう簡単に覆るものでもない。
「一度落ちた信用は9割がた戻ってこない」。ネガティブシンカーな私の持論だ。
おそらくもう彼女は何を言っても、何も言わなくても、信用が戻ってくることはないのかもしれない。
私はどう反応したのか。何もしなかった。
ヤマカン騒動と同じ。彼女を否定すれば彼女のかかわったハルヒを否定しかねないから。歪んだ発想であると自身で理解していても、それを変えることはできなかった。また私はアンチに対することになった。
 
 
3.忘却の日
 
 
ハルヒ信者を名乗り始めて、もう四年がたった。後半二年くらいは戦いの記憶が色濃く残っている。降りかかる怨嗟の声にずっとずっと耐え続けて。平野綾ツイッターを始めたことにより、これからもまだまだ非情な言葉が耳に、目に、届き続けるに違いない。でももうすぐ終わる、そんな予感もする。
涼宮ハルヒの消失」が映画化され、これでアニメとしてのコンテンツは打ち止めだろう。
だからもうハルヒの名を聞くことも、きっと無い。
信者としての活動も徐々に減っていく。
涼宮ハルヒは、長い長い時間を経て、ようやく、優しく忘却される。
でも最後くらい楽しい話題で終わりたかったな。
こんなに周りからひどい目にあって、こんな終わり。
 
 
 

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涼宮ハルヒが好きだ。
 
 
好きなのに、それを言うとみんなから馬鹿にされる気がした。
 
 
涼宮ハルヒが好きだ。
 
 
好きなのに、それを一緒に叫ぶ仲間はもういない。
 
 
涼宮ハルヒが好きだ。
 
 
好きなのに、
 
 
好きなのに。